慈愛会物語

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桜島大正大噴火と青年の命運

 

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明治30年、鹿児島の西桜島村で生まれた今村源一郎は、大正2年、15 歳で鹿児島県師範学校の養成講習科に入学し、寄宿舎生活を送っていました。

翌年の大正3年、桜島は未曾有の大噴火、源一郎の一家は瞬時に財産のすべてを失い、種子島への避難、移住を余儀なくされました。仕送りも途絶え、寄宿舎の食費免除のために、食堂の皿洗いを続ける源一郎の姿に寄宿舎の舎監長が食費軽減・寄宿舎費の貸与を計らう程でした。

更には肺病の宣告、貧困による強制退院などを経験、大正4年17歳の時に、師範学校を卒業し鹿児島郡中郡尋常高等小学校の代用教員として働きはじめます。

結婚、そして医師への道

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 大正8年21歳の時に、赴任先の種子島で中種子の医師、山口知英の養女シゲと結婚。
代用教員で一生を終わりたくなかった源一郎は、この養父の姿に触発され、医師の道をめざすこととなります。
結婚の翌年の大正9年、単身上京。師範学校卒業とは言え、小学校卒業資格しか有していなかった源一郎は、東京で代用教員として働きながら中学校で学ぶ生活を続けます。
そして大正12年、25歳で、運命の関東大震災を被災。
この被災で、源一郎は、鹿児島第一中学校に編入することとなります。

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 翌年の大正13年26歳にして、めざしていた第七高等学校造士館に合格。妻シゲも小学校教員として生活を支え、源一郎は昭和2年29歳で長崎医科大学生となり医療への道を歩み始めました。

昭和6年33歳で医師の資格を取得。夜間診療の収入を得ながら、県立病院で無給の医員となり、産婦人科医としての研鑽を積んでいきました。

開業へ

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 昭和9 年5 月5 日、長年の夢叶い、鹿児島市堀江町に「今村産婦人科医院」を開業。
病室4室、見習い看護婦と2人での小さなスタートとなります。
第二次世界大戦では、病院の全焼にも見舞われます。

そして昭和20年、終戦。昭和25年、医療法人制度の無かった時代に源一郎は、病院を寄付して財団法人を設立します。

戦後の混乱時、全国的に不足していた精神科病院の開設を決意し、土地を入手した谷山地区で住民の猛烈な反対に遭いながらも一身を賭する熱意で了解を取り付け、昭和28年、谷山病院を開設しました。

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 また長男一英は、昭和9年16歳で鹿児島一中在学中に肺結核を患い、長い闘病生活の末に昭和32年、父源一郎よりさらに晩学の37 歳で精神科の医師となります。医療の乏しかった離島を巡回し、無料診療の奉仕を続ける源一郎のもとに、島民から病院設立の強い要請が相次ぎました。

一英も必要性を痛感し、二人三脚で昭和34年に奄美病院を、昭和40年に徳之島病院を設立しました。源

一郎は教育者としての情熱を看護師養成にも注ぎ、昭和38年谷山准看護学校を設立。
鹿児島で活躍する大勢の看護師を育ててきました。昭和53年には源一郎の志を継いだ一英が財団法人慈愛会の理事長に就任。慈愛会を支えてきました。

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 そして未来へ

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 桜島大正大噴火、第二次世界大戦、そして戦後からの昭和。
激動の時代に様々な苦難を乗り越え信念を持って前へ進み続けた源一郎。
そして、その思いを受け継いだ一英。

二人の努力を礎に現在は今村英仁理事長の下、公益財団法人の認可を受けた慈愛会。今では2200名を超えるスタッフを擁し、源一郎が説いた「慈愛の心」を受け継いでいます。

勤めていたスタッフの方たちをはじめ多くの方に支えていただいた慈愛会の道のり。
この歴史を自信に、そして貫いてきた精神を誇りに慈愛会は、さらなる次の時代の医療へ取り組んでいきます。

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