リレーインタビュー【保存版】

【第6回】奄美病院 杉本東一院長

2022.11.11

「病気を診ずして病人を診よ」の教え

―代々続く医師一家の生まれとお聞きしました。

ルーツは新潟県高田市、現在の上越市です。江戸時代、越後高田藩の高田城で御典医(ごてんい=お城付きの医者)を務めた時代から300年続く医師家系の5代目になります。私は6人きょうだいの長男で、いわば老舗の跡取り。医師になる宿命を背負っていました。祖父・東造は大正時代に東京・千代田で病院を開業し、胃潰瘍を患っていた夏目漱石の主治医でした。文献に実名が出てきます。病院は父・寿一の代に健診や産業医を柱とする診療所となり、現在も続いています。私の名前は、祖父と父から一文字ずつ取ったのが由来です。医師になるのが当然という環境で育ち、父と同じ東京慈恵会医科大学に進学。放射線医学を専攻し、がんの放射線療法で博士号を取りました。


―精神科・神経科専門病院の院長としては異色の経歴をお持ちです。

医師になって去年でちょうど40年。大学卒業後20年は、母校の医局に常勤・非常勤10年ずつ在籍しました。放射線科で主に悪性腫瘍の治療に力を尽くし、臨死ケアを数多く経験する中、医師として終末期の患者さんにどう接するか、医師として最期に何ができるのかを、20代のころからずっと考えてきました。同時に、家業の産業医としての立場で、心を病んだ方々に接する機会も多く、メンタルヘルスの必要性を痛感して、精神科医療に関心を持つようになりました。いずれ来る超高齢社会に向けてお年寄りを診ることができる医師になりたい気持ちも募り、実家を出て6年間、高齢者向け施設を併設した新潟の病院に勤務しました。100歳以上の方々を含め多くの臨終に立ち会いました。ますます精神科医療への思いが強まるさなか、医療系雑誌で奄美病院の求人情報が目に留まったのです。早速問い合わせ、病院を訪ねて話を聞くうちに、すっかり気持ちが乗って、豪雪の地から亜熱帯の島にやってきました。


―専門の違い、気候や風土の違い。奄美への赴任に迷いはなかったのでしょうか。

自分のやりたい医療、志す医療がここでできる、その弾む気持ちだけでした。私が医師になって片時も頭から離れたことのない言葉があります。「病気を診ずして病人を診よ」―母校の創始者の言葉です。異常をきたした身体、臓器だけにとらわれず、病を抱えた〝人〟を診るという姿勢。まさにこの言葉に背中を押されて精神科医療の世界に入りました。精神疾患は何をもって治癒といえるか、尺度がはっきりしません。病気が治る・治らないという視点でなく、患者さんがいかに幸せに過ごせるかを、私は重視します。究極の治療目的は、患者さん、ご家族、周囲の方々が、悩みや苦しみから解放され、幸せな生活を送れること。その幸せの追求のお手伝いをするのが私の責務です。元々、臨床的な医学、つまり患者さんを診るのが好き。奄美に赴任して12年、やっと一人前の精神科医になれた気がしますが、日々修行です。


―充実した医師人生を歩んでこられた様子がうかがえます。病院を離れての楽しみ、特技などあったら教えて下さい。

大学時代、馬術部に所属していました。160㌢48㌔という体型が馬術にもってこい。馬の性格を読み、乗り手との相性を見極めるのも得意でした。医学部の部活というと、医学部だけの各種大会が開かれますが、私は全国の大学で競う全日本学生馬術選手権で5年と6年の時、7位、8位に入賞した経験があります。卒業後も監督として約20年、後輩を育てました。ボーリングやゴルフも得意です。残念ながらいずれも機会に恵まれず、今はもっぱら麻雀が楽しみ。週末の夜によく、病院職員が私の家に集まって卓を囲みます。多い時で20人ほど集まったことも。和気あいあいと、いい交流の場になっています。


―これからどんな医師人生を思い描いていますか。

病める方を分け隔てなく診つづけたい。慈愛会の理念にも通じる思いです。自分が長く志してきた医療をいま、奄美病院で実践しているところですが、専門知識を生かしたがん診療や、患者さんの高齢化が進む精神科医療、奄美病院が力を入れている認知症治療など、幅広く、身も心も病める方の力になりたいと思います。