慈愛会フィロソフィ

慈愛会フィロソフィ

慈愛
文化勲章受章 富永直樹 作

「人生行路は、汗と感謝で」

何故今、慈愛会フィロソフィの確立を行わないといけないのでしょうか?

当法人の創設は、昭和9年今村産婦人科医院の開設で、それから80有余年の歳月が過ぎたわけですが、当法人の歴史を振り返るとき、私自身は、真の創設は、それから20年遡る100年前と考えています。
100年前の桜島大正大爆発が無ければ当法人は誕生しませんでした。初代理事長は、大爆発から20年の歳月を掛けて、医師となり開業します。この20年の間に、代用教員から改めて東京の中学校に入り直し、そこで、関東大震災に遭遇し、そのお蔭で鹿児島に戻り、一中、七高、長崎大学医学部を卒業しました。書き記すのは容易ですが、その間の苦労は並大抵のものではなかったようです。加えて、この間に、数えきれないほどの皆様に助けられて医師となることができ、また、開業してからもさらに多くの皆様に助けていただき、当法人が存続してきました。そのことを考えますと、現在、当法人に勤務する職員は、先人達の苦労と、それを支えて下さった皆様への感謝を、決して忘れてはならないと考えています。

初代理事長は、そのことをしみじみと「人生行路は、汗と感謝で」と記していましたが、すでに、直接、初代今村源一郎理事長、2代目一英理事長と仕事をした職員も少なくなりました。この100年間の歴史の重みと「感謝の念」をどのような形で職員の心に宿してもらうか、そして、その心をどのような形で継承してもらうかを考えたとき、「慈愛会フィロソフィ」として、しっかりと目に見える形として残すのが、3代目理事長の役割と考えた次第です。


「我が島の燃ゆるが如くに」

私自身は、平成3年に当法人に入職しました。幸い、父の2代目一英理事長がいつも私の失敗を尻拭いし、かつ、職員の皆さんが私のわがままを温かく見守ってくれたからこそ今日を迎えることができています。病院経営については全くの素人で、今のように病院経営についてしっかりと教育を受ける機会がない中で出会ったのが、稲盛和夫氏著書の「心を高める、経営を伸ばす」でした。

さらに、何度か稲盛氏の講演を聞く機会に恵まれ、衷心から講演の内容に共感し、「人生の方程式:人生・仕事の結果=才能×情熱・努力×考え方」を自分自身の羅針盤とするようになりました。同時に、この本の内容は、初代理事長や2代目理事長が築いてきた道と全く同じであることに驚きました。
2代目一英理事長も、昭和9年、今村産婦人科医院開業の年で、一中の優秀な学生の時に、結核を患います。17年間掛けてその病を克服して、初代理事長より更に晩学の37歳で医師となりました。

2人の性格はかなり異なっていましたが、2人に共通する部分があります。強い情熱と不撓不屈の努力で、とても不可能と思うことを可能にしてきたことです。初代理事長は、その情熱を、幕末の志士 平野國臣が「わが胸の燃ゆる思いにくらぶれば煙は薄し桜島山」と謳った心情と重ね、「我が島の燃ゆるが如くに」と表現しました。「信念にまで願望を高め」「一歩一歩の積み重ねの結果が相乗作用を引き起こし」「無理だと考えられていることを粘りに粘ってやりぬき、成功させること」と説く稲盛氏の講話と全く同じなのです。初代理事長や2代目理事長の努力に、職員の皆さんが共感し、同様な努力を重ね、さらに、その努力の姿を見て、数多くの皆様が支えてくれたからこそ、当法人は90年続くことができたと考えています。


2014年の創設80周年記念事業の一環として結成された「慈愛会フィロソフィ検討委員会」が、1年間の歳月をかけて35項目に及ぶ『 慈愛会フィロソフィver.1 』を作成しました。
さらに、創設90周年の節目に向けて見直しを進め、2024年に『慈愛会フィロソフィver.2』へバージョンアップしました。
次の100年に向けて、2,400名を超える職員が、一丸となって「我が島の燃ゆるが如く」情熱で、「人生行路は、汗と感謝で」、「運命は自分で拓け」と進んでいくための羅針盤として『 慈愛会フィロソフィ』を全職員で共有して参ります。